物語の背景【吉展ちゃん誘拐事件】 of #027 また悪だくみをしているのね

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(wikipediaより抜粋)

1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3か月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。

事件の経緯

・1963年3月31日16時30分 - 17時40分の間に、東京・台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展(当時4歳。以下「被害者」という)が自宅近くにある入谷公園(東京都台東区)に遊びに出掛けていたが行方不明になった。両親は迷子を疑い警察に通報。新聞などで「誘拐」ではなく「行方不明」として報じられる。
・4月1日、警察の聞き込みの結果、公園で被害者が「30代の男性」と会話していた目撃情報を得たことから、警視庁捜査一課は誘拐の可能性ありとして、捜査本部を設置。
・4月2日17時48分、身代金50万円を要求する電話が入る。警察は3年前に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件の悲劇を繰り返さないため、報道機関に対し報道の自粛を要請し、「報道協定」が結ばれる。
・4月3日19時15分、犯人から「子供は返す、現金を用意しておくように」との電話が入る。
・4月4日22時18分、また身代金を要求する電話が入り、家族が被害者の安否を確認させるよう求め、電話を4分以上に引き延ばした結果、犯人からの通話の録音に成功する。後に公開された音声は、この通話のものである(この後、4月7日まで犯人から合計9回の電話があった)。
・4月6日午前1時40分、犯人より「子供は寝ている、これから金を持ってくる所を指定する」との電話が入る。
・同日午前5時30分、犯人から「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持って来い、警察へは連絡するな」との電話が入る。母親がすぐに指定された電話ボックスへ向かったが、犯人は現れなかった。そして母親は電話ボックスに「現金は持って帰ります、また連絡ください」とのメモを残して自宅へ戻った。この電話ボックスにはその後も犯人は現れなかった。
・同日23時12分、犯人から「今朝の上野駅の電話ボックスは(警官がいるので)危なくて近寄れなかった、今度は証拠として子供の靴を置くからそこへ現金を置け、場所はまた後で連絡する」との電話が入る。
・4月7日の午前1時25分、犯人から「今すぐ(母親が)一人で金を持って来い」との身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。この電話で犯人の指定した現金受け渡し場所は被害者宅からわずか300mしか離れてない自動車販売店にある軽三輪自動車だった。自宅をすぐに出た母親は犯人に指定された場所に行くと、そこには被害者の靴が置いてあったので身代金の入った封筒(50万円)をその場所に置いた。警察がその車を見張りだすまでのわずかな時間差を突いて、犯人は被害者の靴と引き換えに身代金を奪取し逃亡してしまった。張り込み捜査員の1人は母親が50万円を置いた側にまわる途中、現場から歩いてくる背広姿の男に会ったが、気が急いていたため職務質問もしなかった。以降、犯人からの連絡は途絶え、被害者も帰ってこなかった。犯人を刺激しないため、封筒の中身に本物の紙幣が用意された。
・4月13日、警視総監原文兵衛がマスコミを通じて、犯人に「(被害者を)親に返してやってくれ」と呼び掛ける。
・4月19日、警察は公開捜査に切り替える。また、犯人からの電話を公開し、情報提供を求めたところ、1万件に及ぶ情報が寄せられる。寄せられた情報には犯人に直接つながる有力情報もあったが、直後の逮捕にはつながらなかった。
・4月25日、下谷北署捜査本部は、脅迫電話の録音を異例の「犯人の声」手配としてラジオ、テレビを通じて全国に放送、協力を求め、正午までに220件を越す情報が寄せられる。
・1965年7月4日、警視庁捜査1課の吉展ちゃん事件特捜班は、小原保(32歳)を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕。小原は「誘拐した夜、荒川区南千住のお寺で殺し墓地に埋めた」と自供した。
・7月5日、円通寺境内で白骨化した遺体を発見。小原は犯行当時、台東区御徒町の時計商を解雇され、取引先から借金の返済を迫られていた。

捜査

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捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。
・人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
・警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
・当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
・身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
・犯人からの電話について逆探知をしていなかった。
・当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。

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結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。
有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁科学警察研究所の技官鈴木隆雄に録音の声紋鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった。しかしその後、東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定で、「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(1933年1月26日 - 1971年12月23日、事件当時30歳)とよく似ている」とされたこと[1]に加え、刑事の地道な捜査により小原のアリバイに不明確な点があることを理由に参考人として事情聴取が行われる。

事件解決

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それまでにも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。小原は、1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受けたが、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。
・小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
・事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
・脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
・ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
・足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。

小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、聴取は10日間に限定された。小原は黙秘を続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった。その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた
。平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした。しかし、事件との関係は否定し続けたまま拘留期限を迎えることになった。

小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、1965年7月3日に取調べ室に呼ばれた。これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた。追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火を山手線か何かの電車から見た」と述べる形で認めた。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた。それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した。
翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。


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